No.63_生垣や忘れ一葉を落し掃く_村尾公羽

ペンタクルの6、審判、ペンタクルのペイジ 


先日、約3年ぶりに思いっきりカレーを作りました。 

カレーというかネパール料理。

全部で9品(内1品はごはんです)。 


それでは久しぶりの俳句タロットいってみます。

一枚目、「ペンタクルの6」富の配分、公平。 

二枚目、「審判」再生、復活。 

三枚目、「ペンタクルのペイジ」探求心、チャンス。 


久しぶりに占ったらどう読めばいいか全然わからないカードが出てきました。 

ど、どうしよう。 

動揺を抑えつつ、まずは大アルカナの「審判」を考えてみます。


審判のカードは、上の方に天使がいて手前の猫がラッパを吹きならしている絵柄です。 

キリスト教や西洋文化に親しみのある方ならお気づきかなと思いますが「最後の審判」のことでして、この世の終わり、その「時」が来たことをラッパを吹いてお知らせしているという絵柄です。

世界の終わりとそこからの再生。

この俳句にそこまでのスケールを感じるかどうかはそれぞれに委ねるとして、葉っぱが落ちるということは、植物のひとつのサイクルが終わろうとしていると言えるのかなと思います。


この句では葉っぱが掃かれるところまでしか書かれていませんので、葉っぱがその後どうなったのかはわかりません。

書かれていないことを勝手に想像することはやや主観が強すぎるとは思うのですが、あえてその先を想像してみると、掃かれた葉っぱは庭で燃やされるとか、どこかに貯め置かれることになるなどが思い浮かびます。

燃やされれば灰となり、貯め置かれれば肥料や土になりますので、この一連の流れは桐の葉の一枚が終わりを迎えそして再生するまでの時間と考えることもできるかもしれません。


残りは二枚ともペンタクルです。ペンタクルの管轄は物質や現実です。生垣、葉っぱ、掃く動作、これらは全て実際に存在するものや実際に行動したことで、日常と言い換えてもいいかもしれません。ペンタクルの扱う具体的なものやことが集まって日常の景色ができているのかなと思います。


さて、そうなると問題は「忘れ」です。「忘れ」は「生垣、葉っぱ、掃く」とは少し違った雰囲気ではないでしょうか。私はこの句の中で唯一具体的な形が見えにくい言葉だなと思ってしまいました。

本家ハイクノミカタでは「忘れ」について『「忘れ」とは落ちるのを忘れて枝に残っていたというよりは、落ちることは落ちてしばらく垣の上にあったというほどのことだろう。』と書かれています。

ということは、この句の「忘れ」は「時間」と言いかえられそうです。

しばらく生垣の上にあった時間と終わりから再生への時間、二つの時間の対比がこの句に独特の時間の流れをもたらしているような気がします。



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